英会話こそ習うより慣れよ!

 

昨年の8月から英会話教室に通っています。

もともと英語は大の苦手。

でもハワイが大好き。

 

こんな農的ライフスタイルを実践してるくせに、

年に一回はハワイに行くと決めていたりする。

だから英語を使って話す機会って、

最低でも年イチでやってくるのね。

 

で、

去年まではボチボチ独学で勉強するも、

当然ながら著しい進歩は無し。

勉強はやっぱり苦手。

モチベーションが続かない。

 

旅行先では片言の単語連発と、

ボディーランゲージも交えたトークで、

無理やり会話を押し切ってきた。

わかっているようで、

わかってない会話。

 

でもショッピングやレストランでは、

実際なんとかなってきた。

最近はイリーやポケトークなんかもあるし、

Google翻訳なんかのアプリもあるから、

現状でもうまく操作すれば対応可能だし、

近い将来はきっと同時通訳アプリが開発されて、

全世界でストレスなく日本語で会話できると思ってる。

 

だけど、

やっぱり自分の言葉でしっかりしゃべりたいし、

ダイレクトに相手の言葉を理解したい。

だから英会話教室に興味あるな、

ちょっと通ってみたいな、

って結構前から思ってた。

 

そう思いつつも昨年の8月まで、

英会話教室に行かなかったのは、

周りの声を聞いていたから。

特に英語をそれなりに話せる人の声を聞いていた。

 

「英会話なんてお金を使わずに勉強できるよ。」

とか、

「NHKのラジオ講座がいいよ。」

とか、

「その辺歩いてる外人に話しかけたらいい。」

などなど。

 

それらについてはイメージが出来なかったし、

全然モチベーションが上がらなかった。

 

なによりも、

「興味あるな、通ってみたいな」っていう

肝心の自分の声を聞けてなかった。

英会話教室でネイティブと話している自分、

そのイメージにはワクワクしていた。

そこに気づいた!

 

お金や時間や勉強法の問題ではない。

ワクワクに素直になろうと。

で、やってみた。

 

場所は難波。

1レッスン50分。

生徒2人に対してネイティブの先生1人。

価格は1レッスンおよそ3,300円くらいかな。

 

レッスン内容はほとんどが雑談(笑)

レッスンが始まってから、

30分くらいはマジで雑談に費やしてる。

 

が、

それがめちゃくちゃ楽しい。

もちろん日本語はほぼ無し。

レッスン自体は結構簡単な内容のものが多いし、

先生ももちろん優しく丁寧。

ビギナークラスなので会話に慣れる事がメインなのかな。

 

ところがレッスンを受けるにつれて違和感を感じてきた。

その違和感とは、

一緒にレッスンを受ける相方の生徒さんに感じる違和感。

ほとんどが真面目でおとなしいのです。

 

会話を楽しみに来ていない!

マジで勉強しに来てる!

もうスタンスが全然違うやん。

ひとりで先生とバカ話している自分が恥ずかしい。

 

ただ、

もちろん皆さん優秀で、

先生からの質問にもしっかり答えられるのだけど、

自分から先生に対しての質問とか、

話題の提供とかが、

全然無い人が多い。

 

あるいは、

会話のキャッチボールが全然続いていない。

素っ気ない受け答えのように聞こえてしまう。

 

なるほど、

よく言われる、

「文法的に合っている文章を使おうと考え過ぎて、

結局声に出せないままに終わってしまう」

ってやつね。

 

文法的な正しさが決して悪いわけではないが、

50分という制限の中で、

ネイティブと会話をするという点に関しては、

非常に不利になってしまう。

 

逆に、

知っている単語を文法関係なしに発言すると、

当然間違いを指摘はされるが、

会話としては成立してたりする。

レッスンで先生とよく会話ができるのは、

文法を無視してもズケズケとイケるタイプ。

 

間違うことを恥ずかしがったり、

間違った自分を責めたりすると、

発言に臆病になってしまう。

 

だから何だってわけじゃないけど、

でもたぶん、

ネイティブとの会話を経験すればするほど、

修正もできるし、

フレーズのパターンもつかめるし、

文法的にも整理されるから、

英会話を会話として成立させるには、

「慣れ」が近道なんじゃないかと、

発言ができない姿を間近で見て、

非常に強く思いました。

 

だって、

TOIECや英検の点数よりも、

英語を使って会話をすることが、

目的だから。

 

自分自身にとって英会話レッスンは、

「習うより慣れよ」、

「慣れたら勉強しろ!」

かな。

人それぞれなんだろうけどね。

世界最古だ、建国2,680年

 

若い頃はこんな事、まったく興味無かったな。

祝日だったら、休めたら、なんでも良かった。

今日2月11日は、そんな日、建国記念の日。

もともとの名前は、紀元祭。

戦争に負けたので、おGHQ様が改名されました。

ちなみに建国してから今年で2,680年です。

国の成立は紀元前660年。

カムヤマトイワレビコノミコト(後の神武天皇)が橿原の地で

即位した日が2月11日とされています。

これは現存する王朝では、世界一古いのです。

しかも釈迦の生誕よりも古い!

まさか卑弥呼や聖徳太子が建国しただなんて思ってないですよね?

そうだったとしても、やはり世界最古であることは間違いない。

第2位はデンマーク。

建国から約1,000年くらいらしい。

第3位はイギリス。

建国から約950年くらい。

圧倒的に古い、というか歴史がある日本。

世界中にめっちゃ自慢できるやん!って思うけど、

最近までは実は知らんかった。

しかも誰も自慢してないし。

それもそのはず。

僕が学生の頃の日本史の授業では、

建国について学ぶ事がなかったからです。

さらには国旗掲揚も、国歌斉唱も、教師たちの反発で、

異様なムードを醸し出していました。

なぜそういう状況なのか、学生の僕には理解できなかった。

 

しかしながら、世界的に見れば、常識的に考えれば、

自国に対しての愛着や尊厳を植え付けない教育など、

あり得ないと思うのですが、日本はそうじゃないようです。

あたかも、自分の育った土地や環境や歴史を否定し、

将来的に国を捨て、バラバラになってしまうのを計画してる

かのような雰囲気。

 

郷土愛という言葉がありますが、自分が育った地域の事は

住めば都で、他府県よりもいい土地柄だと皆さん自慢して

いますよね?

だけど国単位になると、なぜかそれはタブー。

なぜなのか?

そのヒントが、紀元祭が建国記念の日と改名されたあたりに

ありそうな予感。

突っ込んだ事を書いてしまうと、なにかと問題ありそうなので、

匂わせブログでおしまい。

橿原神宮で食べた弁当は美味かったしな。

現実的には、今こうして、平和に幸せに豊かに暮らせているので、

ご先祖様たちに感謝して、建国を祝ってもいいんではないでしょうか。

初めてのコイン精米機

昨年、松下ファームさんでお米作りのお手伝いをさせて頂き、

お手伝いの報酬としてのお米を一年分、本日受け取りました。

お米の量は、30KGの袋が6つ分。

なんと180KGもの量を頂きました。

 

夫婦二人で180KG、絶対食えないね。

だけど貰えるだけ貰うというガメツさ。

我が家へ配送してもらう途中に、松下さんに寄り道をお願いをして、

30KG分を精米することにしました。

人生初のコイン精米機。

「誰があの自動販売システムを使うんだろう」って思ってた、

あの街角の小屋に、まさか自分がお客として利用する日が

来るなんて思ってもみなかった。

そこでおそらく、農業関係者以外の人はあまり経験がないと

思うので、利用した状況をリポート。

まず値段。

10KG精米するのに100円。

今回は30KGなので300円。

使えるのは100円玉オンリー。

1,000円札や500円玉はダメ。

ご丁寧に、同じ敷地内に缶コーヒーの自販機が設置してあり、

100円のコーヒー2本買って、残り300円を精米機に使用。

その辺、商売上手。

そして料金を投入し、精米の種類を選ぶ。

普通の精米か、3分、5分、7分付きかを選べる。

選ぶと右側のシャッターが自動で開き、玄米を入れ込む投入口が

現れるので、そこに精米する玄米を入れる。

しばらくすると、左側の放出口から精米されたお米が、シャワーの如く

放出され、受け取る漏斗状の装置に溜まる。

装置の下にはあらかじめ、玄米を持参してきて投入が終わった袋を、

再利用の為に設置しておく。

漏斗状の装置にある程度お米が溜まってきたら、機械下部分にある、

ペダルを踏みこみ、袋へお米を入れる。

このペダルを踏みこむ作業を繰り返し、30KGすべてを袋に入れて完了。

玄米から白米に精米する際に、糠が取れるので、30KGで持ち込んだ玄米は、

約27KGになって出てくるそうです。

取られた糠は、小屋の裏にある、また小さな小屋に溜められているようですが、

小屋のドアに鍵がかかっているため、糠を頂くことはできませんでした。

ざっとこんな感じ。

やってみると、簡単で10分もいなかったと思いますが、言葉にすると長い。

これからの人生、何度もコイン精米機に、お世話になるような予感。

田んぼを自前で持つことはなかなか難しいですが、誰かの田んぼを手伝って、

お米を頂いて自分が食べる分を賄うことが出来たら、なんちゃって自給自足

かなって思います。

初めての煙突掃除

我が家のお風呂は、薪で焚いています。

最近、お風呂を焚いていると部屋が煙たくなるので、

そろそろ煙突が詰まってるよな、って確かに思ってはいた。

だけど煙突掃除が面倒くさくて見て見ぬフリしてたら、

部屋中が煤だらけになってしまって。

で、やっぱり嫁に叱られ、とうとう掃除する事になりました。

最初に煙突の継ぎ目にある、L字型のパーツの蓋を開けたのですが、

開けた途端、バサーッって、ビックリするくらい煤が落ちてきた。

そして自作の掃除道具で煙突の中をこする度に、ピンポン玉大の

煤がフワフワって落ちてくるじゃないですか。

生きてるみたいに。

リアル「まっくろくろすけ」かよっ!

さすがに3年も掃除してなかったら、こんだけ溜まるんやなって

実感しました。

しかも急に掃除する事になったんで、掃除道具が棒に雑巾を

巻きつけただけの自作道具という荒業。

さらにカーブのところは棒では入らないので、短く切って、紐で繋げて、

という加工で対応してみた。

紐が煙突の中で、切れてしまった状況を想像したら、

ゾっとするので、さすがに煙突掃除のワイヤーブラシを

買おうと思いました。

「やりたいことをやれ!」は聞き飽きた

「今を生きる」と同じくらい、

あるいはそれ以上によく聞く言葉、

「やりたいことをやれ!」は、

もう聞き飽きました。

 

この言葉、

やりたいことが明確にある方で、

既にやりたいことをやってる方には、

必要がない言葉です。

 

が、

やりたいことは明確にあるのだけど、

なんらかの事情でできない方。

に対して背中を押す意味で、

「やりたいことをやれ!」は、

非常に有効だと思います。

 

ただし、

背中を押すだけ押して、

失敗した時の責任を、

取る訳ではないので、

無責任にもなりますが。

 

そして悲しいことに、

やりたいことが何なのかわからない方が、

実は意外と多いというこの社会。

 

この人たちに、

「やりたいことをやれ!」と言っても、

なかなか届きません。

だって、

やりたいことが無いのだから。

 

「やりたいことをやれ!」という、

メッセージを発信する方は、

大体が、

うまくいった、

成功した、

って人たちです。

 

この人たちは元々、

やりたいことが明確にあって、

それを勇気を出して実行したから、

うまくいったという経験を持ち、

その目線から発言しています。

 

逆に、

やりたいことが無い方が、

何もすることもなく漫然と生きて、

「何もするな!」

というメッセージは発信しません。

 

つまり、

メッセージとしての、

「やりたいことをやれ!」は、

一方的に飽和状態で、

そこから、

強迫観念じみたメッセージへと

変貌しつつあります。

 

やりたいことをやれない人間は、

臆病でダメで無気力な人間だ、

と言わんばかりの。

 

または、

そう言われない為にも、

他人のやりたいことに乗っかって、

「やりたいことをやっている」つもり、

になって満足していることもあります。

 

でも別にやりたいことなんて、

無くたって全然いいのです。

無くて当然。

無くても立派に生きられます。

無いからあるまでの幅は、

相当に広く、

十人十色といったところです。

 

ただ、

人間とは常に変化し続けるものです。

今は無くても、

今後はあるかもしれない。

 

そこで、

大切にしたほうがいいと思うことは、

「やりたいこと」ではなく、

「やってみたいこと」。

この2つの日本語は似ていますが、

ニュアンスは明らかに違います。

 

英語でいうと、

want to(やりたいこと)

try to(やってみたいこと)

です。

 

try to は、

思い付きでも何でもいいから、

やってみようかなと思ったことを、

すぐさま実行する。

興味が無くなったらすぐ止める。

のスタイルで充分。

 

このすぐ止める、

というところが肝心。

他人の目を気にして、

やり続けなくちゃならない

とか、

成功するまで諦めるな

とかは無視。

止めたら次、

止めたら次、

です。

 

これを繰り返す。

繰り返した結果、

ひょっとしたら try to から、

want to が見つかるかもしれません。

 

want to が見つかったら、

勇気を出して実行する、

か、

しないかは本人次第。

 

その繰り返しのプロセスを飛ばして、

試してみてもいない、

やってみても無いことが、

いきなり、

やりたいことになることなんて

無いでしょう。

有ったら天命です。

 

実際にやりたいことを実行している人も、

このプロセスを経てきているにも係わらず、

他人へのアドバイスになると、

「やりたいことをやれ!」です。

 

だから、

「やりたいことをやる」前段階として、

「やってみたいことをやる」

ことが必要となります。

 

ところが、

その「やってみたいこと」を

たくさん試せる若い時期に、

人々は就職をしてしまいます。

一旦社会人として働きだすと、

大幅に時間が奪われます。

さらに仕事以外のことをする

気力も奪われます。

 

この状態で、

「やってみたいこと」がある人は、

自分に言い訳をします。

「仕事をしながら出来る訳がない」と。

「それよりも休みたい」と。

 

そうやって、

「やってみたいこと」ですら、

ひとつひとつ、

自分自身で殺していきます。

 

結婚、

子供、

ローンなどなど、

言い訳なんて山ほどあります。

 

そうして、

「やりたいこと」の前段階である、

「やってみたいこと」が、

壊滅状態になってしまい、

「やりたいことは何なのかわからない」

という状況になってしまう。

 

そんな人たちに、

「やりたいことをやれ!」は、

無意味です。

 

だから、

「やりたいこと」よりも、

「やってみたいこと」、

に意識を傾け、

簡単なことから少しでも

実行できるように、

背中を押してあげるのです。

 

「どんな些細な事でも構わないから、

ちょっとした思い付きでもいいから、

興味を持ったことを少しずつ形にしませんか?

無理だったらすぐに止めていいから」

と。

過去や未来の消去がなぜ、”今を生きる”なのか?

前回の、

「私には今しかないよ。

今を生きる女なんだよ。」

の続き。

私には今しかないよ。今を生きる女なんだよ。

 

「今を生きる」って言葉、

よく聞くけれども、

意味がなんとなくわかるようでわからない。

 

今を精一杯生きる

とか、

今を存分に楽しむ

ではなく、

「今に意識を戻せ」

を第一に言いたいんだと思う。

 

ただそれだけでは、

大きな変化は生まれない。

今に意識を戻すと同時に、

過去や未来を消去する。

過去を消去するとはどういう事か?

 

それは、

過去と今の接点を切る。

過去に行った判断をフラットに戻す。

 

過去に下した判断や結論は、

その時点のものであり、

現時点で適用できるかどうかを、

疑って再度考えてみる。

 

過去何度となく見てきたものを、

今の目で新たに見るということ。

その上で今の判断を下す。

子供の頃にトラウマとなった出来事を、

大人の今の目で見てみる、

なんかがそうですね。

 

例えば、

過去さんざんにイジメられた上司を、

現在の目で見てみる。

初めて会った人として見ると、

ただのおっさんな訳で、

良い人でも悪い人でもない、

ただのおっさん。

 

だけど、

ただのおっさんは、

過去の延長線上で当然接してくる。

そこでただのおっさんのイジメに対して、

フラットな対応をすることになる。

初対面のおっさんに、

いきなり意地悪されたら、

誰でも怒りと同時に、

反撃や抵抗を開始すると思う。

 

が、

過去の延長線上で応対をしてしまうと、

我慢することになる。

負の連鎖をどこかで切らなければ、

ずっとこのまま。

 

多くの人は、

現実はこんなに簡単じゃないと

勝手に思い込んでいるので、

我慢した挙句、

結局は会社を辞めて、

縁を切り、

イジメを終わらせる。

 

あるいは、

良い人か悪い人かのフラットな判断において、

それ相応の事が無ければ、

良い人と判断する可能性もあるかもしれない。

過去散々にイジメを受けてきたにも係わらず。

例えが悪くて焦点がボケてきた。

 

つまり、

何か物事を見るに当たって、

その瞬間の状態のみで、

判断を下すこと。

が、

今を生きること。

 

過去に下してきた判断に対して、

一貫性があろうと無かろうと、

今この瞬間に感じた事に、

重きを置くこと。

 

直観でも良いし、

論理的でも良い。

あり得ないが、

今この瞬間だけしか生きられないとしたら、

どんな判断を下し、

どう行動をするか?

 

未来においてもしかり。

将来的な不安や恐怖、

計算高い態度など。

この人とうまく付き合えれば、

将来なんらかのメリットが享受できるかも、

という姿勢は未来に生きている。

 

そういう場合、

今の瞬間のこの人に対して、

付き合いにくいと思っていたり、

うっとおしい奴だと思ってたりするのに、

だけど得な事もあるかもしれないと思い、

今を我慢する。

 

今やってみたいことがあるが、

多額の費用が必要だと漠然と思い込み、

老後の生活に不安を感じてしまい、

今を我慢する。

 

それは今を犠牲にしながら、

未来に生きている。

 

今を生きるとは、

この瞬間、

物事をフラットに見て判断すること。

それによって取る行動のこと。

 

決して、

表面的な楽しさや頑張りの事ではない。

自分の外側の充実ではなく、

自分の内側の判断の在り様のこと。

その上での行動のこと。

と思う。

私には今しかないよ。今を生きる女なんだよ。

「今を生きる」、

とか、

「今、ココ」、

とか最近よく聞きません?

 

よく聞くなって思ってたら、

2020年のカレンダーにも、

同じ事が書いてあってビックリ!

ちびまる子ちゃんの、

示唆に富んだ、

含蓄あるお言葉です。

 

「私には今しかないよ。
今を生きる女なんだよ。」

 

しかしながらこの言葉、

具体的な意味って、

イマイチ不明じゃありませんか?

なんとなくわかるような気もするけど。

 

その、

なんとなくの候補その①、

「今という瞬間を大事にして、
一所懸命に生きる事。」

 

なんとなくの候補その②、

「今に集中、
存分に今を楽しめ。」

などなど。

 

って言ったって、

一所懸命に生きてるつもり、

だし、

楽しんでるつもり、

だし。

いまいち違いがピンと来ない。

 

生きてる人間全員が、

今を生きてるやん、

と。

コタツの中でゴロゴロしてたら、

今を生きてないんかと。

 

というかおそらく、

感覚的にはイメージしにくいんですが、

「今を生きる」とは、

「意識を今に戻せ」

ってことを第一に言いたいんだと思う。

 

意識を今へは、

当たり前のように思えて、

当たり前じゃなかったりする。

 

例えば、

「昔は良かった」

「わしが若い頃は・・・」

なんて言うオヤジは、

意識の所在は過去に偏ってる。

 

または、

「今は苦しいが未来は良くなるはず」

「この子の将来に期待している」

なんてのも、

意識の所在は未来。

 

肝心の今はどうなのよ、

って具合に。

あなたは今を犠牲にしてるんじゃない、

って具合に。

 

コレは、

無意識の内に、

過去へ未来へと、

行ったり来たりしているもの。

そこを意識する。

 

ところが、

たとえ意識を今にしたところで、

それだけでは大した変化は望めません。

具体的に何かが大きく変わることはない。

 

または存分に今を楽しんでみたところで、

過去のトラウマが消えるわけでもなく、

将来への不安が解消されるわけでもない。

 

人間は生きる過程において、

過去の経験を糧として、

今を判断する。

将来に備えて、

今に準備する。

 

それを繰り返し行っているのが、

今という瞬間です。

非常に当たり前の話し。

 

その上で、

意識を今に集中してみても、

何かが大きく変わるような事もないし、

逆に、

大きな変化は恐怖でしかない。

無意識の内に変化を拒絶している。

 

自分が過去に判断した事について、

その判断は間違っていたと、

過去の自分を否定する事は、

恐怖でしかない。

 

将来の不安に対して、

今から準備をせずに、

不透明なまま将来を迎える事は、

恐怖でしかない。

 

そんな恐怖を抱えたまま、

今のこの瞬間を楽しむ事は、

不可能に近い。

今に集中して楽しんでいるように思えて、

実は恐怖心で一杯。

むしろ現実逃避に近い。

 

だから、

「今を生きる」、

「意識を今へ戻す」、

を実践すると同時に、

過去や未来を消去する。

 

過去を消去するとは、

どういうことか?

 

次回へ続きます。

軸を持て!

軸を持ちなさい

と、よく世間では言います。

軸を持っていないと、

お前ブレブレやんけ!

って言われます。

 

そう言われない為に、

軸を探す事になるんですが。

果たして軸は何処にあるんでしょうか?

 

ここで非常にナイーブな話に触れるので、

嫌われ覚悟で書きます。

あっ、元々嫌われているから問題ないか・・・。

で、

 

一番簡単でスピーディーな軸といえば、

宗教になります。

 

たとえば、

タカヤススタイル教の信者の皆様は、

教祖である町田尊師の

発言、

ブログ、

SNS,

などなどで情報をつぶさにチェックします。

ブログはプリントされて経典にし、

肌身離さず携帯。

 

そして逐一、

自分の行動を、

尊師の発言やブログに照らし合わせて、

間違っているかいないかの

判断を行います。

 

もし町田尊師が、

「口に入れる食べ物は自然のものだけ」

と発言しようものなら、

普段の食生活は一変、

自然農法で作られた作物を探し回って

日々食べる事になります。

 

誘惑に負けて、

マクドナルドで、

ポテトとビックマックなんかを食べた日は、

町田尊師を思い浮かべて、

涙ながらに懺悔します。

 

そして今の自分の心境に合った言葉を

ブログやSNSから拾い出してきて、

それを励みにもう一度頑張ります。

いわゆるこれが軸です。

 

この、

「自分の行動を、

尊師の発言やブログに照らし合わせて、

間違っているかいないかの

判断を行います。」

って部分が特に軸。

 

あらゆる宗教は、

あらゆる問題に対して、

最適解を用意してあるので、

それなりに問題は解決します。

 

宗教だと話しは早いのですが、

無宗教の方は代わりの何かを軸にします。

 

歴史上の人物だったり、

大物政治家だったり、

大経営者だったり、

自分の両親だったり。

代わりの何かは、

具体的な解決策の提示が無いので、

ほぼ迷うことになりますけどね。

 

宗教だろうが、

代わりの何かだろうが、

人や組織は変われど、

軸のシステムそのものには変化はありません。

 

つまり軸に照らして判断する。

軸は例えて言うなら、

モノサシ

とも言えます。

 

モノサシを持っていると、

対象の物のサイズが即座に測れます。

モノサシを持ってないと、

相対的な判断しか出来なくなる。

 

アレよりは長い。

コレよりは短い。

絶対的か相対的か。

だから軸を持つと、

行動に一貫性が出てくるので、

良しとされる。

 

ホントにそうなのか?

 

世界にはモノサシがたくさん有ります。

センチ、

インチ、

寸、

キュビット、

ベルスタ、

ハロン

etc…

 

そのどれもが何かを根拠に、

メモリを刻んでいる訳ですが、

使用する側は、

そんなことを考えて使いません。

 

1センチがなぜ1センチなのか。

住む場所や時代が変われば、

なぜ同じ物を測るモノサシに

違いが出るのか。

 

軸が良しとされることに疑問を持つのは

そういったところにあります。

 

尊師が化石燃料は奪い合いの精神だと言ったから、

モノサシは5センチを指していたから、

それを自分の行動に変換すると、

車には乗らない、

これは5センチに間違いない、

となる。

 

そこに、

化石燃料は枯渇しないので満たされている、

とか、

これは17キュビットではないだろうか、

という視点はありません。

 

つまり、

常に自分の頭で思考して判断する

ということを放棄して、

判断を何かに依存させた楽な状態

が軸なわけです。

 

だから、

常に自分の頭で思考して判断する

、がもし出来るならば

軸は必要ありません。

 

もし、

1センチの根拠に言及できるのであれば、

モノサシは不要。

世の中に絶対的な存在など無く、

すべてが相対的に変化し合っているから、

という認識さえあれば。

 

自分自身に言えることとして、

「軸を持たないという、軸を持て!」

現実世界の希薄さは、異空間の濃密さ

前回からの続き。
http://takayasu-style.com/2020/01/22/2020012201/

 

人と人の繋がりが希薄になったのは、

高度成長期あたりから、

人々が村からの自立を始め

都会に住みだしてから。

 

そんな事を考えながら、

郡川の村を眺めていたら、

ほとんどが70代から80代。

高度成長期時代に村から飛び出していった世代やん!

 

まさに村を否定した、

自立を選んだ最初の世代。

そんな周辺の人々と繋がりを持とうとした、

僕は思慮が足りなかった。

反省。

 

同じ郡川という村でも、

それ(自立)以前と以後では、

内容がまるっきり違うだろう。

コミュニティーの再生なんぞ、

絵に描いた餅のようだ。

たとえリアルな餅だったとしても、

長く続ける自信が無い。

 

そして、

人との繋がりの希薄さは、

世間の危惧に反して、

さらに加速していく。

良いか悪いか、

そんなことじゃない。

世の中の流れとして、

確実に希薄になっていく。

 

但し、

リアルの世界の話しに限る。

今はホントに過渡期。

だから迷う。

 

その反面、

希薄な人の繋がりが、

実は極度に濃くなりつつ場所がある。

それがネット空間、

バーチャルの世界。

 

その空間・世界が、

さらに高速に大容量に拡大するっていうから、

繋がりも加速するでしょう。

5Gの話しに戻ってきた!

 

僕が学生だった頃、

彼女を作りに行く場所は、

コンパ。

だけど、

最近は、

出会いサイト。

コレって常識。

 

プロフィール乗っけて、

スペック並べて、

盛った写真貼っておく。

連絡取れた娘と、

気が合えば会ってみようかな。

だからあんまり飲み会とか好きじゃない。

直接会って探り合うの苦手だし。

それより家でスマホで彼女探し。

 

リアルは薄く、

ネットで濃く。

万事この調子。

 

だから、

心配はしていないよ。

人と人の繋がりが希薄になることを。

希薄になるんじゃない。

繋がる場所が変わるだけ。

リアルかバーチャルかの比重が変化するだけ。

 

そして繋がる空間は、

世界に向けて広がっている。

 

『最近興味を持ってくれた、

連絡し合ってる娘は、

シリア人。

良さそうだから会ってみようかな。

LCCでシリアまで25,000LINEポイントだし。

同時通訳アプリあるし大丈夫。

だけど会話そのものが微妙。

リアルの女の子との会話が苦手なんだよな。

恋愛シミュレーションゲームだと無双なんだけど。

そういえばyoutubuに、

「リアル女子に好かれる会話講座」

ってのがあったな。

しかもリアルタイムのささやきアドバイス有りで』

とか。

 

そしてあらゆる事が近い将来、

バーチャル空間で行われることになる。

想像もできなかったことが。

そしてリアルに人は、

どんどん孤立化していく。

 

やがてコミュニケーションは、

テレパシーのような形態へと

進化していく。

文字が無かった頃の縄文人は、

テレパシーで会話をしていた。

テレパシーで繋がり合った縄文人は、

1万年間もの平和の時代を過ごした。

らしい。

 

テクノロジーの進化が、

先祖返りを起こすきっかけになるかもしれない。

あるいは人間の存在そのものを、

根底から覆す事態になるかもしれない。

 

AIが全人類の知能を超える瞬間、

シンギュラリティという、

その瞬間を、

自分の目で見たいと思います。

5Gで人と人が繋がる!?

5Gとは、

ファイブジェネレーションと読み、

第5世代移動通信システムの略。

 

超簡単に言えば、

インターネットが今までよりも、

格段に速くなり、

容量もバカでかくなるから、

おかげでよりたくさんの処理が可能。

 

ということは、

サービスというか、

出来る事の範囲がより一層、

広がる感じ。

よりクリエイティブに。

 

逆に懸念されてることとして、

強力な電磁波が人体に与える影響が大。

その辺り、詳しく調べている方がいると思うので、

興味があればGoogle先生に聞いてみて。

 

今回は5Gの話しがしたいわけではない。

5G以降の未来の話し。

というか、

人と人の繋がりの話し。

 

昨今、

人と人の繋がりが希薄になってると謂われています。

昔に比べると、

ご近所さんや、

親戚同士の付き合い、

なんかが簡素化されている感じで。

 

町内会に入らない、

若い世代の夫婦も多数。

隣の人の顔すら知らない、

とかも結構ある。

 

だから再び地域のコミュニティーを取り戻そう、

なんて活動もたくさん存在する。

大規模な災害が起こる度に、

「絆」って言葉が強調されたりする。

 

タカヤススタイル当初、

郡川という村に越してきた当初、

人と人の繋がり合い、

その辺にチャレンジしてみた。

だけどなぜかしっくりしない感じ。

 

ご近所付き合いや、

地域の繋がりの重要性を、

具体的な行動で、

実行したいと思っていたけど、

そして自分なりに実行してみたけど、

ずっと違和感を感じていた。

 

なぜなんだろう?

 

その疑問を解決するべく、

村の繋がりが希薄になっていった、

そのプロセスを考えてみた。

 

おそらく、

村の繋がりの機能としては、

戦後すぐまでは活きていたはず。

繋がりが徐々に崩壊し始めたのは、

高度成長期時代くらいか。

 

なぜなら、

人々が自立し始めたから。

自立するための仕事が都会にあったから。

お金があれば生活できる世の中に、

急速に変化していったから。

ここから社会は劇的に変化し始める。

 

それまでは、

自身の生活は村に依存していた。

一人では生きていけず、

お互いが協力しあって生きていた。

繋がりがあって初めて成り立った。

それが村というコミュニティ。

 

昔は大体が農家だったろうから、

田植えだとか、

水の田んぼへの引き込みだとか、

老人の扱いだとか、

子供の世話とか、

協力がなければ成り立たなかっただろう。

 

もちろん、

それを維持するために、

ルールがあったはず。

今でいう法律とかそんなんじゃなくて、

村の掟。

作法ともいう。

 

きっと、どの時代の若者たちも、

そんな掟や作法が嫌だったはず。

因習にまみれた老人たちの言葉は、

聞きたくなかったはず。

いつの時代も同じです。

 

だけどどの時代の若者たちも、

掟に抗えなかった。

掟破りは村八分。

それは生活が成り立たない事を意味するから。

 

ところが、

村八分になっても、

生活が成り立つ時代がやってきた。

それが若者たちがサラリーマン化していった最初の時代。

 

若者たちは村を去り、

金の卵ともてはやされ、

都会に住みだし、

同じ境遇の若者と繋がりだし、

自立の喜びを分かち合う。

今から60年ほど前のこと。

 

そこには村の掟なんか存在しない。

自分たちのルールを自分たちで作るんだ。

文句を言う老人たちはいない。

さぞかし刺激的だったでしょう。

 

それから60年、

世の中の労働者世代は、

ほとんどがサラリーマンとなり、

徐々に村は、

村としての役割を終えることになりました。

 

最初に村を飛び出した若者たちは、

村の繋がり、

人の繋がり、

そういった中から飛び出したので、

繋がりへの意識はあったでしょう。

 

だけど、

逆にその過度の繋がりが、

ウザいと感じてもいたでしょう。

繋がりは大事だけど、構わないでいてもほしい。

アンビバレント。

 

それから下の世代は、

強力な村の繋がり、

人の繋がり、

に対して具体的に意識できないので、

年々薄れていったのではないかと思います。

 

話しが長いので、

続きは次回にします。